雲水たちの感想
レポート「雲水たちの感想」
僧堂での「マインドトーク洞察法合宿」に、修行中の多忙な時間を割いて10数人の雲水の方々も参加され、下記の様な感想をお寄せいただきました。(文責:人間性探究研究所)
● 今回の研修会で初めてマインドトークの存在を知りました。私の頭の中は常にマインドトークに翻弄されている事に気づきました。何かがあるとすぐ頭の中で考え込んでしまいます。そういったことを研修会の中の「歩く瞑想」をしている時に気づかされました。歩きながら数を数えるのですが、唯数えるのではなくて、自分が息を吐いたときだけ数えます。それが始めはなかなか数えられませんでした。回りに気を取られたりして雑念ばかりがありました。それがマインドトークであり、集中力をなくす原因になっていたのです。しかし、歩くスピードなどを速くすると集中が増えました。自分にあった歩くスピード、呼吸の速さなどが集中力の増加につながるようです。これから坐禅の時などに集中できないときがあれば、一回一回の呼吸に集中してみたいと思います。
● 今回の研修に参加させていただき感じた事は、毎日がマインドトークとの葛藤なのだということと。呼吸するだけでも意識してするのとしないのとでは全然違うことが分り、改めて意識した呼吸が大事な事なのだと認識させられました。また「強制弛緩法」や「ストレッチ瞑想」などで簡単に身体をリラックスした状態にすることができ、とても参考になりました。
● 普段生活する上で、マインドトークは絶対に誰にでも関係しているものです。無意識で何も考えていないつもりでも私は何かを考えていること、過去や現在の体験や環境、精神状態などで、自分の中で何かを決めつけていて、それが日常生活を送る上で悪い影響を与えていることがわかった。このマインドトークを止めることができれば、マイナス思考や、悩んだり、苦しんだりすることを減らすことができるのである。
今回、色々な体験をしたり、話を聞き、様々な事に気づいた。気持ちが落ち込んでいると、身体のいたるところに、無駄な力が入ったり、姿勢が悪くなり、体調が悪くなる事、ちょっとした動きにも、身体の色々な場所の筋肉を使っていること、呼吸により、肉体的にも精神的にも楽になる事など。この事に気づかずに生活する事は、気づいて生活することとは大変な差があると感じた。今回、様々な環境や精神状態の方々と話ができた事や、体験で学んだことをこれからの生活に少しずつでも生かせていけたらよいと感じた。
● はじめてマインドトークという言葉を聞きました。仏教で云う所の「念」と同じ概念かなと思いました。特に禅修行に参考になると感心した事が二つありました。
一つは、「強制弛緩法」です。足のアキレス腱がら緊張していき、顔の眉間のシワまでその緊張が来て極限まで達した時、一,二,三の合図で瞬間脱力した時の感覚が鮮明でした。丁度、大川の堤防の堰を切ったような勢いで、血流がドクン、ドクンと手首に感じられ、手全体が熱くなって行くような感じがありました。大摂心等で長く坐禅が続き四,五日経って来ると身体全体が次第に疲れてきますが、そういう時緊張を取って脱力する事により回復が早められそうです。
二つには、二日目「歩く瞑想」で、一歩を一呼吸でゆっくり歩く訓練をしました。その折に、一~二メートル先に目標を設定して、其の目標に向かって口から息を吹きかける実習をしました。これが集中力という点で抜群の効果がありました。
臨済宗の宗祖である臨済禅師の語録の中に「すでに起こった念(マインドトーク)を次いで追うな、未だ起こっていない念は起こさせないようにしなければならんと思うのも要らん事じゃ。そうすれば十年の修行に勝る」と云われました。集中力の持続は念が起こりにくいという点に大いに効果があると思われます。今後、数息観法、隋息観法と共に、口から息を吹きかける観法を取り入れて坐禅をやって行こうと思っております。
● 「強制弛緩法」と「歩く瞑想」、「呼吸法」に出席しました。前者では足先から順番に顔までを緊張させて、一気にその緊張を解き放つことにより深いリラックスした状態を体験することができました。
この行為で大事な事は、足から顔までを順序良く力をいれて行く事と、呼吸を止めないこと、ウォーキングでも呼吸を意識することが重要だと何度も指摘された。そして、一度目より二度目の方が大きい弛緩を味わうことができました。呼吸に意識を集中させることで、マインドトークが出現するのを防ぐ、意識するために数を数えるというのは、坐禅の数息観に習ったものでしょうか、何度も何度も数える事で無我、無念の心理状態になって行きます。
後者のヌキ足、サシ足、忍び足は、早足ほどエネルギーは使わないまでも、普通の歩行スピードよりよほど汗を掻きました。
● 他の雲水の感想にあったように、マインドトークとは、仏教で云われる「念」と呼ばれるものであろう。よく言われるように、雑念・妄念である。我々は日々の生活の中で過ぎてしまった過去を何時までも後悔し、まだ来ない未来を不安に思い、心が安らぐ事が無い。人の頭の中は常に不要な思考がいっぱい騒がしく、勝手に起こる会話は事実を離れて膨らんで行くばかりである。人は想像上の自分を本当の自分と思い込みしている。しかし、我を妄認してしまうと自分と世界とに隔たりが起こり他を偏見し、敵視さえするようになってしまう。世の中の個人間、国家間、宗教間の争いの多くは、此の我を妄忍してしまうことから起こる。世界の殆どの宗教が「真実の自己」を説くにもかかわらずにも、である。
マインドトークは私たちの思考の全体の9割を占めるという、今回の演習では、此のマインドトークを洞察し、減らしていくための方法を幾つか教えていただくことができた。マインドトークを減らすこと、禅家ではこれを莫妄想という、「妄想すること莫れ」。その方法として坐禅がある。心を整える前に、まず体を整え、呼吸を整えていこうとする。身心一如の考え方は東洋の伝統でもある。体を落ち着けて坐り、数息観という息の数を数えていく呼吸法をする。その後「隋息観」、「止・観」と続いていく方法がある。今回演習で行った方法もマインドトークを体や呼吸といった方向から洞察していくというもので類似していた。なかでも「歩く瞑想」や「ボディースキャン」というのは、禅よりかはテーラワーダ仏教(小乗仏教)の瞑想法に近いのではないかと感じた。ゆっくり歩く「歩く瞑想」とは変わって、我々の禅宗の経行は速く歩く。周囲に気を取られている隙が無く、極端な時は列の前の人の背中しか見ていられないくらいである。しかしその事で無駄な情報をカットしマインドトークを起こりにくくし、歩くことのみに成り切っていける。「歩く瞑想」実習の中で歩くスピードを速くしたり、ゆっくりしたりした、実習の感想で何人かが速く歩く方が集中できると述べていた。しかし「歩く瞑想」の狙いは敢えて外部の情報が入って来る環境に出て歩き、そして自らのマインドトークを洞察し、対処する力を付けるというものだろう。この点が禅の経行と「歩く瞑想」の根本的な違いだと考えることができる。ゆっくり歩いていると初めはマインドトークだらけであったが、最後は落ち着いて本当にゆっくりとした歩みになっていた。呼吸と歩みに集中できるようになり、外部の環境から刺激が入ってくるにもかかわらず、それに囚われなくなっていたのであろう。他、多くの人も最後は自分なりの落ち着けるペースで歩いていたようである。
「食べる瞑想」も経行と同じような狙いがあり、僧堂との違いがあったように感じた。
しかし双方とも頭の中がカラッポの状態を創り出すという点ではやはり本質的に同じなのだろう。禅の僧堂ではカラッポの状態、つまり「無」を知った上でそうでない状態を捨て去る、マインドトークを捨て去ることが徹底して行じられているのに対して、講習ではマインドトーク自体を観察して理解し、減らしていくという方法の違いがあったように感じる。やはり徹底して観察するテーラワーダ仏教の瞑想に近く、より論理的で知的な感じを受けた。
実習の多くは「禅」という立場から、意味を見出すことができる。しかしその事に気づいたのは後になって振り返ってからであり、殆どの雲水が今回の実習を新鮮な体験と受け取った。
我々は僧堂の生活の中で、自分たちの行なっている「行」の意味を考えることがあまり無いようである。
僧堂の生活ではまず、単の上の人に習う事、同じように行ずることを教わるのである。つまり、真似をするように教わるのである。「マネル」「ヌスム」は日本人の伝統で、そこに難しい理屈が挟まることを嫌う。
特に禅宗では直接体験を重んじ、言葉による説明は月を指す指であり月そのものではないとされ理屈は退けられる。指は月を示す目的を終えれば元に戻さねばならない、つまり捨てることを重要視される。私たちの「行」は自分を捨てる事。自分を忘れていくことであり、それが「無私」であり、またその「無」が本当の自分であるとさえいわれる。「そうしてそうなのか?」という疑問でさえも、疑念(マインドトーク)であるので退けられることがしばしばである。
語録なんか読んでいると疑念した瞬間に棒で打たれたり、大声で怒鳴られたり気の毒になってくる。実際に我々は歩く瞑想こそしないが、うるさく足音を立てて歩いていれば怒られる。食べるときも音を立てぬように神経磨り減らして(特に新参者は)食べる。
多くの場合疑念は不満などのマイナス感情であり、自分の思い通りに行かない時に起こる。僧堂の静かな生活に慣れるまで様々な疑念が胸の内を通り過ぎていく。
それでも止めてしまわずに残るのは、ここに信じられる何かがあるからである。自分より先に同じような困難を乗り越えて来た先方がいる。その前にもずっと祖師達がこんな生活を続けてきているのである。それは論理的に理解されるものではなく五感を使って使って生活する中で感じ取られるものであるだろう。子が親に順ずる様に私たちは祖師のやってきたことを信じて行じていく。僧堂には何百年かの伝統があるのである。
現代社会に住む人々は何が正しいか悪いかを判断し生活することを余儀なくされている、情報の洪水の中で複数の選択肢から一つの考えを、あるいは複雑に絡みあった問題を素早く解決することを求められている。しかし、あれやこれやという相対的な思考と云うのは必ず対立し本当の解決を与える事はできず、決して心が安心する事は無い。多くの人々はマインドトークに翻弄されているのである。もうこの国は且つて子が親に素直に準じたように簡単にはいかない。日本人が共通して持っていただろう真善美への意識は殆ど失われてしまった。
そんな時代に僧堂の生活の存在は奇跡的ではあるまいか。私たちは信じなければどうにもならない生活をしている。そして信じられるだけの経験の積み重ねがあり、記憶の繋がりがあり、伝統がある。ここには確かに「信」があるのである。
しかし私たちは「信」を重んじるあまり、「知」を軽んじて来たのではあるまいか。人々は「知」に迷っており、しかもかつての日本のような「信」は成立しにくい。私たちは謙虚に他に学び、積極的に「知」を獲得せねばならないのではないだろうか。その「知」は宗派の中でしか通用しない専門用語によるのではなく、広く一般に理解される言語で、また論理的で、科学的でなければ今日の人々を納得させることは困難だろう。そして「知」から「信」へ導くことができるのではないだろうか。僧堂の生活というのが現代の学問によって解体されるのも必要なことかもしれない。
今回の人間性探究研究所の講習会は自らを知るのに大いに役立った。聖が山にあり俗が街にある時代はとっくに過ぎ去っている。しかし、僧堂は伝統に胡座を掻き山に籠もってしまう危険性があるように思う。雲水も修派内だけの付き合いでなく、様々な世界と接して自らを知ることも重要ではないかとあらためて感じさせられた経験であった。