【再掲】7月26日に丹田呼吸法の講習会がおこなわれました。少し関連ありますので、以前ご寄稿いただいた田中さんの素晴らしい受講レポート「洞察による新たな気づき」を再掲させていただきます(事務局)。
「洞察による新たな気づき」
田中仁章
昨年10月3日に初めて受講して以来、5ヵ月半が経過いたしました。この間のマインドトーク洞察により、様々な新たな気づきを持つことができました。
ここでは課目的に、「ストロー呼吸法」、「坐禅」および「マインドトーク洞察ウォーキング」の実施中において感じたこと、あるいは、気づいたことについて述べさせていただきたいと思います。
1 ストロー呼吸法
何故ストローなんだろうという疑問が強く、「奇異をてらっての事かな」、「そんなことはないはずだ。きちんと研究された結果のものであるはずだ」、「いや以前から行なわれていたものに違いない」、「とにかくしっかり取り組んでみよう」、「しかしこんなことが役に立つのかな」などというマインドトークが受講中も出てきた。
勿論、それらの思考に流されないよう、“こだわり”や“とらわれ”という特性を持つマインドトークから離れ、集中して学ぼうと考えていたつもりではあった。
自習でも、又してもこのストローが気になり始め、何故ストローなのかという“懐疑的マインドトーク”が生じてしまう。
私には、このようなマインドトークが多いように感じられる。
しかし、自分が自分の状態を把握しながらの、この懐疑的態度によって、このストローが「今・ここ」並びに「腹式呼吸(横隔膜呼吸)」に意識を戻してくれるという基本的なことが分かった。
ストローは「今・ここ」への集中における「腹式呼吸」の実施、すなわち腹式呼吸に支えられたマインドフルネスへのアンカーであるという気づきがあった。北山先生は、車に乗ってストローを銜えタバコのように練習されたと伺ったが、なるほどと思う。
ストローには、息を細く長く吐いていくという望ましい呼吸法を習慣づけたり、荒い呼吸をなくして精神の静寂を保ったりという目的もあるとは思うが、やはり、「今・ここ」とのつながりを意識させるということ、ひいてはマインドトークの洞察に大きな意義を見出せるように思う。
何もない状態で腹式呼吸法を行なっていると、いつの間にか普通の呼吸に戻っているし、気づきも遅れる。
しかし、ストローという視覚的あるいは触覚的刺激が、「今・ここ」へのアンカーとして常に存在していれば、マインドトークへの気づきが容易になるし、洞察を入れやすくなる。
私も、先生の行動を倣わせていただいて、少しでも前進していきたい。
2 坐禅
「坐禅」によって数息観を中心としたマインドフルネスを行なったが、そもそも坐禅を行うことに対して、マインドトークを伴いがちであった。
「禅寺に行く方が本当の修養になるのではないか」と考えたり、「いやそんなことはない、自宅でも真剣に取り組めばしっかりと効果はあるはずだ。それが坐禅の良いところだ」とか、「いやいや効果は最初から期待すべきではないだろう」などと、“懐疑的マインドトーク”の中で坐禅に入るという状態だった。
坐禅中は、数息を維持しながらも、その一方において、「数息の方法はこれが一番よい方法なのだろうか」、「今までの坐禅は数息に集中していたと言えるのだろうか」、「これで正しい坐禅と言えるのだろうか」などの、“懐疑的マインドトーク”が、ぼんやりと数息の陰で時折出てきた。
それに気づくと、「いやこのような思考はマインドトークというよりも、正しい坐禅をするための検証だし、数息は続いている。だから問題ないのだ」などと考えてしまって、数息を凌駕してしまうこともあった。
このチェックという思考が、(向上心あるいは自己不信のどちらに起因したものかどうかは分からない。
おそらく相互作用の結果だとは思うが)私にとっては、最もやっかいなマインドトークの起点となっているように思われる。
数息観での腹式呼吸法(坐禅)は、ひたすら数に注意を向け、結果として、いわば数そのものに成り切るくらいの状態が求められることは、分かっているつもりである。
したがって、愚直に、とでも言えるような状態で数息に集中していくことが必要であるはずなのに、やはり時々、「自分は正しい坐禅を行っているのだろうか」、「いやこれは考えるべきではない」などという“価値への不安”あるいは“正誤への不安”というマインドトークが、チェックに続いて入ってしまう。
この検証、あるいはチェックを入れるということに起因するマインドトークは、なかなか止みそうもない。
とはいえ、面壁9年という故事もある。
初心者としては、些事に囚われずというか、洞察によるマインドトークへの気づきの内容に動揺することなく、そのままスーッと川下に流せる力を少しずつでも養える様、今後とも精進していきたい。
私のマインドトークが、自己信頼という基本的な信念に欠けるゆえか、向上しようという気持ちが現状に比して過大となっているためか、あるいは誇大自己妄想的な考えが形成されてしまっているゆえかは分からないが、この様な原因論的な思考に囚われず、「今・ここ」に生きる力を身につけることができる様、実践を重ねて半歩ずつでも前進していきたい。
3 マインドトーク洞察ウォーキング
足裏の感覚に意識を向けながら、歩数を数えつつ腹式呼吸を行なうウォーキングを毎日30分以上行なった。
ウォーキングを始めて、2カ月ほど経ったある日のことだった。
マインドトークから離れていたと思うが、一歩一歩が力強く心地よく感じられ、足の裏が敏感になり、しっかりと大地とつながっているという実感が生まれ始めていた。
「さっさっさっ」という一連のリズム感覚も生まれていたが、いつもと変わらない姿で前方に存在しているところの見慣れた山や雲が、突然、「つながっている感覚」の中で親しみを持って迫ってきた。
山が一つ一つの木々の集合体に感じられ、空を覆う雲も一滴一滴の粒子の集合体に感じられた。
自分も山も雲も皆同じで、皆はつながっており、同じ運命の集合体という存在であるような、生理的な喚起を伴った感覚を味わった。
極めて短時間ではあったし、その後は同じような感覚は味わっていないが、周りの世界との不思議な一体感が生まれた瞬間だった。
人間が刻々と変化する「今・ここ」に徹底して意識を集中できると、自他の境界が意識から消滅してしまう、とでも言えるのかもしれない。
ただ、きわめて貴重な体験であったとは思うが、そのような体験を希求することは、“快”の追求へと変化し、結果的にマインドトークにつながり、望ましい心の在り方ではないと言えるのかもしれない。
この体験は、「抹茶瞑想」のなかで体験した感情と酷似している。
以前、北山先生のご教示の下で行なった抹茶瞑想の時も、帰りの電車の中で窓越しの夜景を見ながらという、やや情感的な状況下ではあったが、若干の興奮とともにジワーッと感謝の念がわいて来たことがある。
圓徳院北書院での「あの時々刻々への集中」が、おにぎりや抹茶との、私なりの一体感を生み出した結果だったように思えた。
「あの時・あの瞬間、瞬間」への集中が、対象も我もなく、一体的な感覚を生み、そのことが、おにぎりや抹茶を対象としてではなく、同根としての感覚を生じさせたのではないだろうか。
逆説的だが、そのことが抹茶やおにぎりの個性を、際立たせていたのではないのだろうか。
もとより、自分のレベルが、一体感を生めるような段階に到達しているとか、高次のレベルに位置しているとは、とても思えない。
私は、洞察中においては、なんとかマインドトークを減らすことができてはいるものの、生活の中では、マインドトークに満たされた日々を送っているし、時には人間として恥ずかしくなるようなマインドトークに支配される時もある。ただ、人間は誰でも世界との一体感を感得できるような力を、潜在的に保有し得ているのだと思う。
問題は、それを感得できる環境をいかにして整え、いかにしてそのような力を拡大していくか、ということにあるように思える。
以上